制作年 | 1760年頃 |
制作国 | オーストリア |
制作者 | 未詳 |
素材 | ダイヤモンド、ホワイトゴールド、シルバー |
サイズ | L55mm, W24mm |
神聖ローマ帝国皇后(女帝)マリア・テレジア
ヨハン・ヤーコプ・フォン・ベンゼル旧蔵、同家伝来
神聖ローマ皇帝フランツ1世により1746年に男爵の爵位を授かった、スウェーデン生まれのヨハン・ヤーコプ・フォン・ベンゼルは神聖ローマ帝国の最高位職のひとつであるマインツ選帝侯宰相を務めた。
ヨハン・ヤーコプ・フォン・ベンゼルの忠誠心に満ち、効率的でもあった仕事ぶりは皇帝フランツ(1708-65年)とその妃、あの偉大な皇后マリア・テレジア(1717-80年)によって手厚く報われた。マリア・テレジアと言えば当時誰よりも絶対王政の手腕を理解した人物であった。帝国強化に必要な改革を辛抱強く成し遂げ、煌びやかな宮廷を率いるその威厳に満ちた姿は、深く尊敬され人々は従った。
1740年にハプスブルク王朝の父カール6世から王座を受け継ぎ、その後40年間にも渡って支配者として君臨し続けたマリア・テレジアは、不屈の精神と偉大な能力をもって臣民の生活の向上に努めた。この目的のために、彼女は財政制度の改変や医療サービスの改善を行い、学校を設立、国防の強化を行った。フリードリヒ大王として知られた権謀術数に長けたプロイセン王からの脅威は続いたが、マリア・テレジアの勇気と強い意志はそのフリードリヒ大王にも認められ、同大王は以下のように賞賛している。「様々な改善を経て、彼女の軍隊は、これまでのオーストリア王家の諸皇帝の時代にはなかった程の高い完成度を達成したと言える。彼女は、天才と称されるべき人間による計画を遂行した女性である」と。
ナンシー・ゴールドストーンは伝記 『In the Shadow of the Empress (女帝の影に)』(2021年)の中で以下のように言っている。「40年間に渡って、ほとんどの場合、意志の力のみによって、彼女は全く質の異なる様々な問題に、根気と勤勉さをもって立ち向かい続けた。それは彼女の人間に対する思いやり、公平さや節度を求める気持ち、そして深く心に根差した責任感から生まれたものであった。」
自分の目的を達成するためには、臣民からの敬意と服従を得なければならないこと、そして臣民に対してハプスブルク王朝の荘厳さと文化水準の高さを示し続けることの必要性を女帝は十分に理解していた。次々に行われる戴冠の祝賀行事や婚礼、盛大な舞踏会や祭典などで、マリア・テレジアは演劇的ともいえる装いに絢爛豪華なジュエリーのコレクションで飾り立て、それは眩い出で立ちであった。1744年に行われた、マリア・テレジアの妹の結婚式を見たある見物人は「女王とその妹は、まるで女神が人間の女性の形を借りたかのような姿」であったと言っている。
全ての公式行事において、マリア・テレジアの厳かなイメージがその絢爛豪華なジュエリーによって確立していたように、高級官僚や大臣の夫人達もまた煌めくダイヤモンドで着飾っていた。フォン・ベンゼル家旧蔵ダイヤモンドの意義もここにある。そこにはハプスブルク帝国の支配構造における宰相という地位の重要性、そして皇帝、皇后からの彼に対する敬意の大きさが窺える。
パールの人気をも凌ぎ、当時のダイヤモンドは他の全ての宝石の上に君臨していた。そのことは、パリのジュエラーであったJ.H.プジェの著書『Traité des Pierres Précieuses (宝石論)』(1762年)の中でも「我々はダイヤモンドの時代にいる」と宣言されている。熟練したブリリアントカットからはそれまでにはなかったほどの光の煌めきが放たれるようになった。つまり、エメラルド、サファイアやルビーの色や光沢が距離によって褪せてしまうのに対して、ダイヤモンドの光の反射は非常に強く、注目は遠くからでも着用者へと引き寄せられる。こうしたダイヤモンドの特性こそが、このジュエリーの創作にインスピレーションを与えたのであろう。この作品では石が金属の支持体なしにクラスターを構成しているようであり、それによりそれぞれの要素が一続きのピュアな白い炎として、区切れのない輝く面を作っている。
この皇帝からの信任の証しを誇りをもって受け継ぎ、政治、文芸そして外交分野で傑出した人材を輩出してきたベンゼル家は、最近の売却に至るまで、それぞれの世代がこのジュエリーを大切に所有してきた。この作品からは、マリア・テレジアに代表されるハプスブルク家の君主の威厳と栄華が想起される。
1918年のオーストリア・ハンガリー革命まで受け継がれてきたマリア・テレジア自身のジュエリーコレクションが、最後のオーストリア皇帝であったカールによって売却され、失われてしまったことは残念である。一方でこのことは、今回のイヤリングの重要性を際立たせている。マリア・テレジア自身から授けられたこれらのイヤリングは、ハプスブルク王朝の先祖から受け継いだ豪華な様式を見事なまでに例証しているからである。それだけでなく、このジュエリーが類稀である理由は、単にダイヤモンドの黄金時代のオーストリア王室のジュエリーが消失してしまったからというだけでなく、他国でもその時代の壮麗なジュエリーはあまり残っていない。
その理由として挙げられるのは、第一に1789年のフランス革命に始まる政情不安である。これは19世紀末まで続き、様々な君主を共和制に代えてしまった。この結果、諸王室の宝物は散逸したのである。第二に、同時期の度重なる戦争行為によって、重要なジュエリーコレクションが略奪や没収の憂き目にあったことである。そして第三には、ジュエリーの多くが流行の変遷とともに改作され壊されてしまったからである。こうして多くが失われたせいで、このオーストリア帝室旧蔵という来歴を持つイヤリングは、18世紀の宮廷ジュエラーが目指した高みを示す貴重な証拠となっている。ラウンドシェイプとペアシェイプのクラスターをシンプルに並置することにより、オールドマインカットが放つゴルコンダダイヤモンドのような透明度を惜しげもなく見せている。また、これほど多くの違ったサイズや形の石を外周の曲線の内側にエレガントにマウントするという職人技は当時の最高峰である。
このイヤリングには可変性という長所もある。上部の飾りを単独で着用することができるため、取り外し可能なペンデローク部分は荘厳な行事の際に追加すれば、着用者の頭部が動くたびに蝋燭の灯に反射して魅力的に輝くだろう。18世紀のダイヤモンドジュエリーとしては、質的に比較可能な作品が、ロシアの国立コレクション内に残っている。特に、エカテリーナ2世時代のボタンのセットがある(トワイニング卿『History of the Crown Jewels of Europe (ヨーロッパのクラウン・ジュエルの歴史)』(1960年、ロンドン)548頁、図版195bⅱ参照)。同様の比較可能な作品に、ポーランド王でザクセン選帝侯、鉄腕王として知られるアウグスト2世の妻、エベルハルディナ女王のダイヤモンドによるボウノット(同書、図版199a)、またミュンヘンレジデンツの宝物館やアジュダ宮殿にはいくつかの壮麗なインシグニア(記章)があり、これらも比較可能である。髪、帽子、ドレスに着ける18世紀の装身具やインシグニアなどはこれらのコレクションに見られるが、ソリテアやペンデロークなどオールホワイトの作品が現存する例は非常に希である。
こうした状況下で18世紀のダイヤモンドジュエリーとそれがどのように着用されていたかを示す肖像画が現存することは非常に幸運である。そこには優れた多機能性、汎用性が見てとれる。マリア・テレジアの3人の娘と一人の義理の娘による、ジュエリーの様々な着用方法を比較するのは非常に興味深い。その一人、マリア・カロリーナは1768年にフェルディナンド4世と結婚してナポリ王妃となった。マリア・クリスティーナは夫、ザクセンのアルベルトとともにオーストリア領ネーデルランド総督に任命された。また、1755年に生まれたマリア・アントニアは1774年にフランスの女王マリー・アントワネットとなる。最初の二人はそれぞれ違った色の宮廷用の衣装姿で1767年と1768年に描かれている。マリア・カロリーナはブルーのガウン姿で、サファイアとパールのジュエリーに加えて、丸いダイヤモンド・クラスターを耳に着け、さらにいくつかのクラスターを首元に巻いた青いサテンのリボンにも縫い付けている。彼女の妹のマリア・クリスティーナはピンクのブロケードの衣装に身を包んでいるが、このジュエリーを耳に装着してはいない。代わりにパウダーヘアーのあちこちに複数の丸いダイヤモンドクラスターを散りばめている。そして、首元の高い位置につけたボウノットとその下のネックレスにはペンデロークを下げている。また胸元につけた赤いシルクのボーに円形とドロップシェイプのペアをピンで留めている。この二人の義理の姉にあたる大公女イザベラは後の皇帝ヨーゼフ2世と結婚した。彼女はまた違った装いを見せている。丸いクラスターのジュエリーを額の位置にピンで留めて、パールが刺繍された帽子に注意を惹きつけている。ペンデロークは首元のダイヤモンドのボウノットから下げられている。
マリー・アントワネットと将来のルイ16世の結婚によって、皇后マリア・テレジアは当時既に同盟国というよりは敵対国となってきたフランスとの間に永続すべき平和を築いた。ヨーロッパ文明の中心的な都と考えられていたパリから、長きに渡り君臨してきた絶対君主制の名声を守る責務を果たしながら、マリー・アントワネットは母マリア・テレジアの野望の全てを達成したかに見えた。常に公衆の注目の中にあって、壮麗さを身に纏うことを要求されていたマリー・アントワネットは煌びやかな外見の重要性を認識し、ダイヤモンドを愛好することでも知られるようになった。彼女は自らの治世の初めの何年間か、この作品に類似するロング・イヤリングを着用していた。それは彼女が婚礼の際にウィーンからパリに持ち込んだジュエリーコレクションの一部であったものかもしれない。そうであったとしても、それを示す資料は現存しない。しかしながら、彼女が宮廷御用達ジュエラーであったアンジュ・ジョセフ・オベールから様々な美しい宝石類を購入していったことは良く知られている。宮廷ジュエラーは1783年になるとアンジュ・ジョセフ・オベールからベーマー&バッサンジュというパートナーシップに替わる。この新しいジュエラーは、不運にも、女王マリー・アントワネットが非常に高額なダイヤモンドのネックレスを購入したものだと思いこまされてしまう。「首飾り事件」として知られるその後のスキャンダルによって、彼女の名声は取り返しがつかないほどに穢され、その後も様々な出来事が重なり合って1789年の革命でその悲劇は極まる。君主制は破壊され王と王妃は息子とともに死刑となる。かつてはアンシャンレジーム(旧体制)の栄華を全身で体現していたマリー・アントワネットだが、全てを失い、今では逆境の中で群集に野次られ、後ろ手に縛られながらも、並外れた威厳と勇気をもってギロチンの階段を上り、偉大なるマリア・テレジアの真の娘であることを証明した。
皇后マリア・テレジアの宮廷の威厳と壮麗さを想起させるこのイヤリングは、女帝の長い治世の間に起きたドラマチックな出来事や、ヨーロッパの歴史の流れを決定づけた女帝の子供たちの出来事も生き生きと今に伝える。