用語集

フォントネ、プロスペル・ユジェーヌ【ジュエラー/メゾン】

Fontenay, Prospel Eugène

祖父の代からのパリのゴールドスミス&ジュエラーの家系に生まれたプロスペル・ユジェーヌ・フォントネ(1823-1887)は、幼い頃からデッサンの才能とジュエリー製作に対する天職並みの適性を示した。徒弟修業を終えた後、品質の高さで知られる2つのメゾンで働き、1847年に自らのメゾンを創設する。真のクリエイターとして、彼は自らモデルを構想し、デザインし、アトリエでの製作を監督した。博学にして比類ない技術者の彼は、1867年のパリ万国博覧会でゴールド・メダルを受賞し、1873年のウィーン万国博覧会ではルヴナとともにフランスが出展した金銀製品に関する報告書作成の任務を受ける。社業の一方、1864年には宝石貴金属製品製造業雇用者組合の設立に参加し、1868年には貴金属製品製造職人養成のためのデッサン専門学校の設立のためにO.マサンおよびA.ファリーズと協力した。1882年、彼はメゾンを工房の主任に譲渡し、晩年をライフワークの著作に捧げる。その大作『古代と現代のジュエリー』は1887年に出版された。フォントネの創造性は、早くも1855年の国際博覧会に出品された花と実を伴う一枝のエグランタイン(ノイバラ)を模したダイヤモンドのディアデムによって示され、同じ新たな構想と仕上げに基づくものが1858年にユージェニー皇后のために創作された。ナポレオン3世が1861年に購入してルーヴルで展示したカンパナ・コレクションはフォントネに大きな影響を与え、彼はイタリアのカステラーニと並ぶべきフランスにおける考古学スタイル・ジュエリーの主導者となった。しかし、彼の創造のインスピレーションはネオ・グリークとエトルスカン・スタイルに留まらず、エジプシャン・リヴァイヴァルからルイ16世スタイル、ネオ・ルネサンスへと広がり、北京事変後は夏の宮殿からもたらされた翡翠の彫刻をマウントしたイヤリングにまで及んだ。