用語集

ジャネシッチ【ジュエラー/メゾン】

Janesich

イタリアのゴールドスミス&ジュエラー、レオポルド・ジャネシッチ(1880没)が1831年にトリエステに創立したジュエリー・メゾン。彼はトリエステのジュエリー・メゾン、G. B.ティグレで徒弟修業を積み、独立後たちまちにしてトリエステの名家の御用達となる。そのジュエリーはウィーンの流行を極めて敏感に反映したものであったが、それは当時のトリエステが1918年までオースオリアに属していたからである。レオポルドの息子のジョヴァンニは上り坂の状態でメゾンを引き継ぎ、息子のジュゼッペとアルベルトの協力を得てパリに支社を開設した。パリに住まったアルベルトは貴石とパールの取引の中心人物となって、パリのみならずヨーロッパ全土のグランド・メゾンと緊密な関係を築く。1911年、メゾンはロンドンにおいてマールボロー公爵夫人のティアラとネックレスを購入し、これを40万フランでショーメに売却した。メゾンはガレーの花瓶をトリエステで売り、パリでは自作のジュエリーを売った。支店はナポリからモンテカルロ、ヴィシー、ドーヴィル、ロンドンと急速に拡大。1913年にはパリのリュ・ド・ラ・ペに、トリエステの本店の新古典主義の建物を忠実に再現したブティックをオープンした。第一次大戦で一族間の連絡は不通となりビジネスも中断するが、戦後はアール・デコの流行を巧みに捉えてメゾンは隆盛を回復する。トリエステはイタリアに組み込まれ、メゾンは1925年にサヴォイ王家の、1933年にはアオステ公爵家の御用達となった。1937年にジュゼッペが他界すると、トリエステの本店は息子のピエロ(1901-1971)が継承。彼は4年前に他界したアルベルト亡き後のパリの活動を停止し、ジュエリーのクリエイションに集中した。第二次大戦後、ピエロは再興を目指して働くが、1968年、133年のメゾンの歴史に終止符を打つ決断をした。